ふかふか団地ブログ

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2017年11月23日(祝)第二十五回文学フリマ東京に参加予定。
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鈴木純についてずっと考えている

 小説を書いていないのでやる夫スレの話をするしかなかった。
 やる夫スレについての詳細な説明は省くが、AAを使ったSSぐらいに思っとけばおおむね間違いない。やる夫スレのフォーマットは小説よりもむしろマンガに近く、もっと言えば絵コンテ的である。どこまでも凝ることはできるが、わりあい大雑把でも既存AAの切り貼りでそれっぽくなるのは創作の形式として優れた点のひとつだ。小説とは異なる媒体なら使い道のないアイデア(当時は今よりはもうちょっと溜め込んでいたネタの量が多かった)を活用できると考え、長編のやる夫スレを二年前から不定期で書き続けているのだけれど、フリーター時代のあり余る余暇の手慰みにはじめたものが未だに着地できていないのには内心忸怩たるものがある。冷蔵庫の余りモノでさっと一品作るぐらいのつもりでいたのだ。
 わたしの描いている作品は個人的な分類では日常系であり、というもの、日常系作品は小説では描きづらい(起承転結が明確ではないからというのもあるけれど、ややもすると文学的になってしまうから)ので、やれないことをやろうというもくろみがあった。そういうわけなので、ヒロインにはけいおん!鈴木純を抜擢した。自作小説で鈴木純をヒロインに出すこともまた困難である。あずにゃんは出せたんだけど(※大学文芸部時代に書いた短編にあずにゃんの登場するのがある)。
「立ち会いは強く当たってあとは流れでお願いします」というフレーズがひたすらリフレインしているぐらいに見切り発車ではじめた作品なんだけど、労力の半分は鈴木純の思考をいかにトレースするかに当てられている。
 鈴木純はキャラクターが形成される過程がやや特殊で、モブキャラがメインキャストに昇格していく中で肉付けされていったので、彼女の心理を読み解くには数少ない登場シーンでの振舞いを分析するしかない。ないので、アニメけいおん!!での鈴木純登場シーンは三十回くらい見直し、かきふらい先生が鈴木純のために描いてくれたけいおん!highschoolを教科書とした。
 その過程でわたしは「鈴木純はジャズ、即興であり理論である」という理解を得た。彼女は気まぐれなキャラクターだけれど、その内面が揺るぐことはないし、それは未成熟であるが故の無自覚ではなく、むしろ人生哲学のようなものが既に確立しているからこその態度であるということだ。アニメけいおん!!あずにゃんがチョコレートを渡せずにモジモジしている回や、けいおん!highschoolであずさが本番前にジタバタしている話での鈴木純の発言は常にあずにゃんより一段高い視点から発せられている。
 ここからが問題なのだけれど、そんな鈴木純にはキャラクターとしての成長の余地が残されていない。平沢唯が、特にアニメけいおん!からけいおん!!にかけて一介の女子高生から悟りを啓きあずにゃんを導く存在へと成長していったのに対し、鈴木純はもともと成長後の平沢唯のような立ち位置にあって、それゆえにキャラクターが抱える内面の苦悩や葛藤を物語にするという手法が使えないのである。考えても見てほしい。男の子に告白されて思い悩む鈴木純を我々は鈴木純として許容できるか?
 キャラクターを借用して作品を作っている以上、原典に忠実であれという姿勢を崩すことはできない。原作及びアニメにおける鈴木純は、モブキャラ出身というその出生ゆえ、NPC的無敵さを帯びているのである。

鈴木純の誕生日はいつ? - junluv donuts

れんげそうの花言葉
「心が和らぐ」
「私の苦しみを和らげる」
「感化」
「あなたは幸福です」
「私の幸福」
これは22話とか思い浮かべると泣けてきますなー

20:45 - 2012年8月2日

ドゥルーズは「肯定することは、存在するものを請け負うこと、引き受けることではなく、生きているものを解放し、その重荷を降ろすことである。肯定すること、それは軽くすることである」と述べている。平沢唯のゆるふわさはドゥルーズのいう「肯定」「軽くすること」であるだろう。

 鈴木純の無敵さと向き合う上でこれらの考察は非常に示唆に富んでおり、二つ目のツイートは平沢唯のゆるふわさとけいおん!における死や成長の問題の欠如についての一連の考察のひとつであるにしても、それは鈴木純にとっても援用できる。鈴木純は(わたしの二次創作作品内においては)成長の余地がなく、主人公に対し常に肯定を与えるキャラクターである。それはある意味で非常に男性にとって都合のいい、不気味な女性像に近いかもしれない。鈴木純は苦悩する主人公に気休めを言う。彼の抱える問題について根治の手段ではなく頓用薬を与える。ある意味で無責任な態度であり、しかし鈴木純には責任がないのだから、純は親しき友人に対して彼女の純然たる善意として肯定を授けるのである。
 このメインヒロインとしての異質さこそがこの物語を締めくくる武器足りうると考えた。
 他方、主人公の親友である男キャラと鈴木純の親友である女キャラがいて、彼らはそれぞれ裏主人公と裏ヒロインとして裏設定されている。彼らは作中において非常に典型的にラブコメの論理でその関係性を深めた。お互いに好意を自覚し、それぞれの苦悩を互いに救済しあい、結ばれる。それは鈴木純とは異なる人格を有する彼らをトレースした結果ではあるけれど、同時に作者の視点で引いて見ると、人生を引き受け支えあう形のパートナー像を彼らで描いたことで、その上で主人公と鈴木純はそれとは異なる親愛の形を体現できるのではないか、と気付いた。
 すなわち、鈴木純を原典に不誠実にその内面を揺るがすのでも、その完全無欠さを欠陥として指摘するのでもなく、そういった異質な存在と恋の駆け引きをすることの張り合いのなさと不毛さを自覚し、互いに好意を抱く男女間なら当然恋愛すべきである、といった固定観念に逆らうことで物語として成立しうるのではないか、と考えたのだ。

「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」
「男女間に恋愛が成立しない」
「主人公がヒロインを救う余地がない」
こういったことをテーマとしながら、鈴木純をヒロインとしたやる夫スレは作られているのだった。

 皆さんが読んでもいない知りもしない二次創作の創作過程を書いてもまったく意味不明だろうな、とは思うんですが、恐らくこれを読んだ上で自作を見てもらっても意味がわからないと思うので、作品名は伏します。