ふかふか団地ブログ

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近くて遠い、『リズと青い鳥』と山田尚子の距離 // 抱きしめることをやめた「愛」の物語について

「ああ、神様。どうしてわたしに」「籠の開け方を教えたのですか」

 

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この藤棚も鳥籠であり、傘木希美もまた自覚なき鳥であることを示唆する

リズと青い鳥』という名称が指すものは多く、映画『リズと青い鳥』であり、絵本・戯曲「リズと青い鳥」であり、吹奏楽曲「リズと青い鳥」であり、劇中劇「リズと青い鳥」である。さらにこれは、武田綾乃響け!ユーフォニアム 波乱の第二楽章」において記されたものとも差異がある。*1

映画内においてすべての大元となっている絵本・戯曲「リズと青い鳥」は、素直に受け止めれば悲劇である。それは昔に読んだという傘木希美の「好きだよ。最後ちょっと悲しいけどね」という感想や、劇中劇として挿入される「リズと青い鳥」の最後の場面が前述の台詞で締めくくられることが大きな要因となっている。

映画『リズと青い鳥』にはさまざまな感想が寄せられているが、その中でも目立つのが「残酷」だというものだ。*2それは傘木希美にとってだったり、鎧塚みぞれにだったりする。互いの思いが重ならず(あるいは一瞬の重なり合いでしかない)、また互いが願ったものが手元に決してやってこないことは、確かにむごいことかもしれない。

果たして、それをもってあの作品を悲劇と捉えるべきなのだろうか。

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傘木希美のくちびる

リズと青い鳥」、そして『リズと青い鳥』は結末が徹底的に覆い隠されている。青い鳥の大群のシーンは印象的だが、リズが語るべき言葉は前述の通り傘木希美が受け継ぐ。それは傘木がリズであることを認めるという一方で、「リズと青い鳥」の結末部分であるかどうかの判断を困難にしている。「最後ちょっと悲しいけどね」。その言葉が指していた場面はここなのか。リズはその後どうなったのか。青い鳥はどこへ飛びったのか。それは描かれたのか、描かれなかったのか。観客には分からない。

楽曲「リズと青い鳥」も、大空を舞うような鎧塚の第三楽章の後、傘木がどこまで鎧塚に肉薄し、コンクールでどのような演奏に至ったのかは、映画の時間軸では描かれない。そしてさらに、リズと青い鳥をしめくくる「第四楽章」は、サウンドトラック内には存在しながらも、映画を観ただけではこの楽曲全体がどのように締めくくられるのかを見通すことができない。

パンフレットで山田尚子監督が触れている通り、この映画は「途中から途中を切り出した」作品だ。そして、観客が受け取ったものがすべてだとも語る。山田流エンディング曲は隙を生じぬ二段構えだが、今回は閉鎖的な印象の「girls,dance,staircase」と、夏のきらめきを感じさせる「Songbirds」。映画『けいおん!!』と『たまこラブストーリー』ではED曲2曲にある程度の一貫性があった。ここまで対照的なのは今回が初めてだ。

解釈が分かれるという点については、傘木と鎧塚が「リズと青い鳥」の物語を絵本と戯曲、それぞれ違うメディアで読んだことも見過ごせない。「響け!ユーフォニアム 波乱の第二楽章」と映画『リズと青い鳥』が異なる作品である以上、絵本と戯曲もまた、完全に同一の物語ではないかもしれないのだ。傘木希美が読んだ絵本は、戯曲に本来あった要素がスポイルされ、あるいは抽象化されているかもしれない(もちろんその逆の可能性もある)。

ここまで徹底的に、解釈の余地が残されているのは、山田尚子の意図によるものだと思いたい。そしてそうであるならば、観客は『リズと青い鳥』を悲劇と見てもよいし、喜劇と見てもよい一方で、悲劇と断ずることも、喜劇と断ずることもできないのだ。「見たものがすべてです」。それは本作品の答え合わせを拒む態度でもある。

結末の存在しない映画。山田の目論見はどこにあるのか。その理由を、この映画が薄い膜ごしに傘木希美と鎧塚みぞれを覗き見るという演出手法そのものに見出したい。

劇中で傘木と鎧塚の語る言葉はダイアローグとモノローグの境界が曖昧で、かつそれらの言葉で彼女たちの内心を見通すことは困難だ。映像で得られる情報で類推していくしかない。それは本来的な映画の姿であるとも言える。

物事を推し量るという態度をとらざるをえないのは傘木と鎧塚も同様だ。彼女たちはお互いの目に映る、肌で感じる感覚を頼りに、人格に誠実に向き合っていくしかない。劇的に分かりあうことはない。生物講義室での重なり合いが、「希美が、わたしの全部なの」//「ありがとう。ありがとう、みぞれ。ありがとう」の切実な言葉が、強烈な断絶の色彩を帯びているのがその最たるものだろう。

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近くて遠い、我々と傘木希美、鎧塚みぞれの距離

そしてそれは彼女たちが、キャラクターとしてではなく、人格を持った一個人であると山田尚子が描いたからにほかならない。

傘木希美と鎧塚みぞれは、それぞれリズと青い鳥、そのいずれかと対応しているかのように映画では見せかけられている。しかし、傘木と鎧塚がキャラクターでないのなら、どちらかがリズでどちらかが青い鳥、という単純な図式になるわけがない。記号的なつながりではなく、あくまで彼女たちがそのように考えた、ということが重要なのだ。

山田尚子は思いの受け渡しということを丁寧に描く作家だ。映画「けいおん!!」は、中野梓が「天使」にたとえられた意味を、どういった思いを歌にこめたのかを描いた。「たまこまーけっと」では、お餅はお気持ちであり、それらは人から人へ笑顔とともに受け渡される。「たまこラブストーリー」では、糸電話があまりにも象徴的だ。

一方で、「リズと青い鳥」は、希美とみぞれを繋ぐ「縁」とならなかった。それぞれの解釈に基づく「リズと青い鳥」が、演奏という形で示されたにすぎない。オーボエの演奏に思いを乗せること、それを掛け合いを行うフルート奏者が聴くこと。それは言葉よりも強烈に感情を表現する・揺さぶることはできても、正確に伝えること、さらにいえばそれで「理解」することはほとんど不可能に近い。一通りの解釈しかできない音楽は存在しえないのだ。

映像的にも、希美やみぞれの主観カットは少なく、世界のどこかから彼女たちを切り取るようなカメラワークとなっている。舞台が学校の中でほとんど完結していることと相まって、生活感や生々しさは(お菓子を囲んでダベるシーンまであるのに)取り払われている。通常あってもいい、観客に向けた内心の告白にあたる画面はほとんど見当たらない。鎧塚みぞれは、何を思って「フグ」と呟いたのか?踏み込むことができない一線、「薄い膜」の存在を、観客は鑑賞中通して常に片隅に感じ続けることになる。

ラストシーンで、突然振り向いた希美の顔を見て、みぞれは今までにないような驚きの表情を見せる。希美はどんな顔をして、何を口にしたのだろうか。想像の材料は途方もなく与えられて、しかし、決定的な事実は何一つ開示されないのだ。

リズと青い鳥』の世界と我々を分かつ「薄い膜」。その膜とは、少女の秘め事を覗き見ることへのエクスキューズであると同時に、観客の解釈から、そして山田尚子という創作者そのものから、彼女たちを守るためのベールではないのか。

すなわち『リズと青い鳥』は、傘木希美と鎧塚みぞれのための映画であって、観客のために作られた映画ではないのではないか。

生活の窃視は、はっきり言ってしまえば悪趣味だ。そんな悪趣味な手法を、どこまでも虚構であることを宿命づけられているアニメーションに取り入れること。そのことで、傘木希美と鎧塚みぞれを創作物という存在から引き離し、こことは違う世界に、この世界とは無関係に存在する人間になりうる。山田尚子は幸運にも高校三年生の吹奏楽部部員にレンズを向けることができただけで、彼女たちの未来を見通すことはできない。作品に対する全能者であるはずの映画監督が、自らと作品とを切り離すことで、真なる意味で「祈る」ことを許される。作者でいながら鑑賞者となろうとしたのが、山田尚子の意図のようにも思えるのだ。*3

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近くて遠い、二人の距離

答え合わせができない作品。山田尚子は、傘木希美が鎧塚みぞれだけに向けた言葉がなんだったかを知らない。それでも、覗き見た少女たちを愛おしく思った彼女は、せめて祈るべく、あるいは作者であることを降りた映画に対するささやかな特権として、どこまでも飛んでいく二羽の鳥を描いた。「幸せになる」という確証を与えずに、「幸せになってほしい」という願望だけを、彼女たちの知らないところで挿入したのだ。我々が「悲劇」であったり「ハッピーエンド」であったり、各々の観たい未来を『リズと青い鳥』で観たように。

 

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「それじゃあ、リズの決心が台無しじゃん」「でも、ハッピーエンドじゃん?」

 

上記の内容にエビデンスあるの?

リズと青い鳥』絶対読み解くマンにさんざマジメなブログ記事は書かれてもう何も残されていなかったのでせめて怪文書が書きたかった

*1:まだ波乱の第二楽章読んでない

*2:公式ロングPVでも「誰しも感じたことがある羨望と絶望」とナレーションされているが、解釈違いです

*3:本当に?